ブールデル ― ロダン工房へ入る

ずいぶん前のことである。兵庫県庁舎に用事があり、電車を元町で降り、庁舎へ向かって坂道を上っていた。その途中に、明治期に建てられたと思われる瀟洒な建物があり、つい足を止めて中に入った。後に調べて知ったことだが、それは旧兵庫県庁舎で、現在は迎賓館として使われている建物であった。


門を入って右手に進むと、そこに一体の彫刻像が設置されていた。どこかで見た記憶のある像である。近づいて銘板を見ると、アントワーヌ・ブールデル「アダム」とあった。旧約聖書の、あの「アダム」であることはすぐに分かった。手で額を抱えるその姿は、明らかに苦悩を示していた。


しかし同時に、この像には既視感があった。西洋美術館や京都市立美術館(現・京都市京セラ美術館)で見た、オーギュスト・ロダンの「アダム」と同じ像ではないか、と一瞬思えたのである。確かな記憶ではなかったが、それでもこのブールデルの「アダム」は強烈な印象を残した。私は写真を撮り、その後十年以上にわたって、自宅のリビングにその写真を飾り続けてきた。


最近になって、ふとロダンの「アダム」とブールデルの「アダム」の両像に改めて関心を持つようになった。同じ主題を扱い、似た身振りを持ちながら、両者は決して同じ像ではない。その違いはどこにあるのか。そこから今回のブールデル考察を始めることにした。


まず、ロダンとの関係を知るために、両者の略歴と主要作品の年表を並べてみた。ロダンは1840年生まれ、ブールデルは1861年生まれで、両者には21歳の年齢差がある。ロダンが「アダム」を制作したのは1881年であり、その7年後、1888年頃にブールデルも「アダム」を制作している。ブールデルはまだ28歳で、この時点ではロダンの工房に入る以前であった。


この若さで「アダム」を制作したことから、ブールデルは早熟で才能に恵まれた彫刻家と評価されることも多い。確かにその力量は疑いようがない。しかし、ロダンの「アダム」と並べて見ると、決定的な差異もまた浮かび上がってくる。


ロダンの像が、身体全体を通して感情と時間を語り切っているのに対し、ブールデルの「アダム」では、苦悩の身振りは示されていても、それが心理や物語として十分に組織されてはいない。この点を、私は「意図的に心理を止めた」と理解するよりも、若いブールデルには、感情を心理的・物語的に彫刻として完結させる造形言語が、まだ獲得されていなかったと考えたい。


ミケランジェロ的身体表現を基盤としながらも、その先にある近代彫刻の核心には、まだ届いていなかったのである。だからこそ、ブールデルはロダンの工房に入ったのではないだろうか。成功や名声のためではなく、自らの「アダム」において露呈した限界を正面から引き受け、感情と時間を身体に組織する近代彫刻の方法を、徹底して学ぶために。

ロダン工房とは、ブールデルにとって近代を超える場である以前に、近代彫刻を完全に通過するための不可欠な場所だったと考えられる。この視点に立つと、ブールデルが後年、「アポロンの頭部」や「弓を弾くヘラクレス」において心理性を削ぎ落としていくことは、「できなかったから捨てた」のではなく、「できるようになったからこそ、捨てた」という決断として理解できる。ここに、ブールデルがロダン工房に入った意味が、初めて明確な輪郭をもって立ち現れてくる。


付け加えるなら、両者の「アダム」の差異は、単なる表現技法や作風の違いではない。彫刻において「人間とは何か」をどの水準で捉えようとしたかの違いである。


オーギュスト・ロダンは、人間を感情と時間を生きる存在として捉え、その内面の揺らぎを身体に翻訳することで、近代彫刻を完成させた。


一方、若きアントワーヌ・ブールデルは、人間をまず重さをもつ身体として捉え、その身体が世界の中に置かれてしまっているという条件を、十分に語り切れないまま露出させている。この「語り切れなさ」こそが、ブールデルの「アダム」の本質であり、同時に彼自身の課題であった。


感情を表す身振りはあるが、それはまだ心理や物語へと展開されず、像は沈黙したまま立ち止まっている。ブールデルは、この沈黙を未熟さとして放置することなく、ロダンの工房に身を置くことで、近代彫刻が到達した人間理解の核心を徹底的に学ぼうとしたのである。


この意味で、ブールデルの「アダム」は、すでに現代彫刻の萌芽を含みながらも、それを自覚的に成立させるためには、ロダンという巨大な近代を一度、全面的に引き受ける必要があった像であったと言える。ロダン工房への参加は偶然ではなく、「アダム」という作品そのものが要請した必然的な選択だったのである。

2026年1月5日