
今回はまず、「美とは何であろうか」という根源的な問いから考え始めたいと思います。日ごろ多くの彫刻作品に向き合っていると、私はしばしば、美しさとは何かという問題に立ち返らざるを得ません。
鑑賞した瞬間に「なんて美しいのだろう」と直感的に感動を覚える作品もあれば、一見するとグロテスクで、造形に戸惑い、どこに美が潜んでいるのか理解をためらう作品にも出会います。こうした経験は、美が単なる外見的な調和や快さではなく、より深い次元で生じる現象であることを示しています。
そこで改めて、私自身の言葉で「美とは何か」を考えてみたいと思います。その過程で出会ったのが、千住博の『芸術とは何か』でした。本書は、私の思索を整理するうえで重要な示唆を与えてくれました。
千住によれば、自然は人間の生の基盤であり、感性や想像力の源泉である。人間は本来、他者や自然との関係性のなかで生きる存在であり、その内側からイマジネーションが湧き上がる。そして、そのイマジネーションを他者へ伝えようとする行為こそが芸術であり、その伝達が成立し、人が「生きている」と強く実感する瞬間に、美が立ち上がる。美・芸術・人間は切り離せない関係にあり、自然との関係のなかで循環的に深まり続ける、というのである。
要するに、彫刻家が自らの内部に湧き上がる想像力を、誰かに伝えたいと願う。その切実な行為の軌跡が芸術であり、その想いが鑑賞者に届いたとき、美が生まれる。美とは作品に宿る属性ではなく、作り手と鑑賞者のあいだに生じる、生の実感の共有である。千住の主張は、そのように理解できます。
私はこの考え方に深く共感します。なぜなら、私自身が彫刻作品に出会うとき、常にそのプロセスを体験しているからです。最初の出会いの瞬間、作品が放つ空気や存在感に圧倒され、私は言葉を失います。作品は何かを語るわけでも、問いを突きつけるわけでもありません。しかし、その沈黙の前に立たされたとき、私は気づかぬうちに、自分自身の生き方や希望、人間の力強さとは何かを内側で問い始めています。
このときに生じる心の動きこそ、千住が述べる「美」の実感に他なりません。美とは、作品を通して自分自身の存在が揺さぶられ、同時に受け止め直される瞬間に立ち現れる現象なのです。
外的な造形の美醜を超え、作品が作り手のイマジネーションと鑑賞者の内面を静かにつなぐとき、生命の実感が深化し、その瞬間に美が生まれます。
私にとって、千住の理論は、日ごろの鑑賞体験と驚くほど符合します。美とは「作品そのもの」にあるのではなく、「作品との関係」のなかで生じるものだと言えるでしょう。そして、この関係性を引き受けること自体が、芸術体験の本質を形づくっているのではないかと考えています。
では、いつも美は生まれるのでしょうか。
現実には、作品の前に立っても、何も感じ取れないことがあります。自分の価値観ではまったく理解できない作品、どこに意味があるのかわからない作品、あるいは、どうしても距離を感じてしまい、作品と向き合えないと感じる瞬間も少なくありません。
そのようなとき、鑑賞者はどうすればよいのでしょうか。無理に理解しようとすべきなのか、それとも「自分には合わない」と判断して立ち去るべきなのでしょうか。

ディスタンスシリーズ 四つのアール(旭川市彫刻美術館)
本稿では、この「美の瞬間が生まれない時」を、失敗や欠如として扱いません。むしろそれを、現代彫刻を考えるうえで避けて通れない、重要な出発点として捉えます。
作品と応答できない状態に置かれたとき、鑑賞者はどのような立ち方を引き受けることができるのか。その問いを整理し、考えるための一つの方法として、私は「彫刻マトリックス」を提示したいと思います。