中原悌二郎(1888–1921)は、わずか33年の生涯で日本近代彫刻に「人間の精神性」を刻んだ彫刻家である。彼の作品の核にあるのは、外形の写実ではなく、生きる苦悩や存在の真実を形にすることだった。対象を観察するのではなく、そこに宿る「人間の内奥」を掘り出そうとした。その造形は、荒削りな面の中にも深い感情が潜み、静かな熱をもって観る者に迫る。彫刻とは「生の証を刻む行為」―それが中原の芸術の根である。1888年、北海道釧路市に生まれる。東京に出て洋画を学ぶが、やがて彫刻に転向。1910年に《老人の頭》で文展初入選、1916年には《石井氏の像》で樗牛賞を受け注目を集めた。以後、《若きカフカス人》《憩える女》など、内面的精神を象徴する作品を次々に制作。その写実の背後にある精神性は、後の舟越保武や柳原義達らにも受け継がれた。1921年、肺結核のため33歳で夭逝。しかし、彼が彫刻に求めた「人間の魂を形にする」という志は、今もなお日本の具象彫刻の原点として生き続けている。
橋本平八(1897–1935)は、「自然と時間の声を聴く」ことを彫刻の本質に据えた、孤高の彫刻家である。彼の作品は、形の新奇さを求めるのではなく、素材そのものに宿る生命と時間を聴き取る行為として生み出された。とりわけ代表作《石に就いて》(1928)は、石を「彫る」ことではなく、長い歳月を経て形成された自然の呼吸を「聴き取る」試みであった。そこには、創造とは意志の表出ではなく、自然と無意識の共鳴によって形が生まれるという思想が流れている。橋本にとって彫刻とは、自然と人間の境界を越えた、存在そのものへの祈りであった。1897年、三重県度会郡(現・伊勢市)に生まれる。東京美術学校で彫刻を学び、1922年に《猫》で注目を集める。1927年、日本美術院同人となり、1928年には《石に就いて》を発表。以後、木や石の素材に潜む時間の記憶をテーマとする独自の制作を展開した。その造形は静謐でありながら、素材の奥に潜む生命の声を伝えるもので、日本的精神と東洋的自然観を体現している。1935年、38歳で夭折。短い生涯でありながら、その思想は後の日本彫刻に深い影響を与えた。
舟越保武(1912–2002)は、「祈りと人間の内なる光」をテーマに、精神と形の融合を追い求めた彫刻家である。彼の作品は、信仰に根ざした静けさと、苦悩を抱えた人間の存在の崇高さを同時に表している。1950年に長男を失った深い悲しみの中でキリスト教に帰依し、以後の作品には、苦しみを包み込むような柔らかな光と沈黙の祈りが流れはじめた。代表作《長崎26殉教者記念像》《原の城》などには、人間の脆さと同時に、魂の希望を見つめ続けた舟越の思想が刻まれている。彼にとって彫刻とは、形を通じて「人間の尊厳と信仰の証」を刻む行為であった。1912年、岩手県一戸町に生まれる。東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業後、 1939年、新制作協会彫刻部の創立に参加し、石彫を中心とした具象表現を追求する。戦後、宗教的題材を中心に独自の精神性を築き、1967年から東京藝術大学教授として後進を育てた。 1986年に同大学名誉教授となる。1987年、脳梗塞で右半身に麻痺を負うが、左手で制作を続け、晩年には信仰と芸術が完全に融合した、清冽な作品世界に到達した。2002年、89歳で逝去。彼の彫刻に流れる静かな祈りは、今も人々の心に深く響いている。
柳原義達(1910–2004)は、戦後日本の具象彫刻を代表する彫刻家である。彼の作品は、生命の息づかいと存在の重さをテーマとし、鳩・鴉・犬・裸婦など、身近な題材の中に「生きるものの気配」を鋭くとらえている。その造形は、力強くも静謐で、物質が呼吸しているかのような量感と緊張感をたたえている。「形をつくるのではなく、生命の立ち上がる瞬間を掴む」―それが柳原の創作の核であった。1910年、兵庫県神戸市に生まれる。1936年に東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業。 1939年、新制作派協会彫刻部の創立に参加し、以後、戦後彫刻の中心的存在として活動した。 1952年から1957年にかけてフランスに滞在し、ヨーロッパの彫刻に学びながらも、自身の「生への感覚」を深化させる。 帰国後は、独自の具象表現を確立し、1958年に第1回高村光太郎賞、1974年に第5回中原悌二郎賞大賞を受賞。その後も後進の育成に努めながら、晩年まで精力的に制作を続けた。2004年11月11日、94歳で逝去。 静かな素材の中に宿る生命の鼓動を聴き取るような柳原の彫刻は、今もなお多くの人々に深い感動を与え続けている。