クロチェッティの美ー 拒絶の魅力

久しぶりに御堂筋彫刻ストリートを訪れた。ここには国内外の著名な彫刻家による二十九点の作品が連なり、都市の風景の中に多様な表情を与えている。その中で最初に私を迎えたのが、ヴェナンツォ・クロチェッティの「ダンサー」であった。金色の柔らかな光沢をまとったその像は、首を横に向け、両腕を胸の前で組んでいる。

ヴェナンツォ・クロチェッティの「ダンサー」 設置年月:平成6年10月

私は常日頃、「作品と鑑賞者とのあいだに内的なコミュニケーションが成立したときに美は生まれる」と考えている。しかし、この「ダンサー」は、横を向き、腕を閉じ、私との関係をあえて断っているように見えた。果たして、この像と私のあいだにコミュニケーションは生まれるのだろうか。作品の前で私はしばし足を止め、考え込むことになった。


ところが、像はたしかに私を拒んでいるように見えるにもかかわらず、なぜか心の中にはすっきりとした感触が残り、言葉にできない引力のような魅力を感じた。この矛盾ともいえる印象の正体は何なのか。その問いが、私をこの作品の内側へと導いていく。


今回は、クロチェッティの「ダンサー」を起点として、

  1. クロチェッティとはどんな人物か
  2. 古典主義の継承としての作品の特徴
  3. その芸術の核心―「沈黙と距離」の美学
  4. 舟越保武との比較から見える精神性の差異という四つの視点から、クロチェッティ芸術の本質を探ることにしたい。


第1章 クロチェッティの生涯と芸術的背景


ヴェナンツォ・クロチェッティ(1913–2003)は、20世紀イタリアを代表する具象彫刻家である。彼の活動期は戦後の混乱と再建の時期に重なり、芸術界では抽象化と実験が急速に広がっていた。しかしクロチェッティは時代の潮流と一定の距離をとり、むしろ古典主義の均整と静けさを現代に継承するという独自の道を歩んだ。


ローマを拠点に制作した彼は、ローマ古典彫刻の比例感や静かな量感への共感を基盤としつつ、女性像を主要なテーマとして追求した。彼にとって女性像は、官能を誇張する対象ではなく、「精神の透明さ」を宿す象徴であった。混乱した20世紀の社会において、揺るがない精神性をどのように造形するか。この問いこそが、クロチェッティ芸術の根底を流れる課題であった。


クロチェッティが確立したスタイルには、表面の磨き上げによる理想化ではなく、素材の息づかいを残すテクスチャーと、量を削ぎ落とした簡潔な形態の両立が見られる。この二層構造が、彼の作品を静かで清らかなものにしつつ、どこか生々しい生命感を伴ったものにしている。


第2章 作品の特徴 ― 古典主義の継承と変奏

クロチェッティ作品の特徴を語るうえで重要なのは、古典主義の「比例感」と「抒情性」を、彼が現代的に再解釈している点である。


古典主義の比例感とは、身体各部の均衡が保たれ、過剰な筋肉表現を避け、普遍化された理想の人体を提示する態度を指す。クロチェッティもこの均衡感を重視し、女性像を特定の個を超えた普遍的存在へと高めようとする。肩から腰へのライン、首の傾き、脚の長さなどはすべて長い時間をかけて調整され、静かな均衡を保つ。


しかし、古典主義の形式をそのまま模倣するのではない。提示された比較写真が示すように、クロチェッティの彫刻の表面には細かな凹凸が残され、素材の息づかいがわずかに震えるように伝わってくる。これにより、像は完結した理想像ではなく、「呼吸する存在」として立ち現れるのである。

さらに、視線の扱いも決定的である。クロチェッティの女性像はしばしば鑑賞者と目を合わせず、内面に沈むように横を向いたり、下を向いたりする。この視線の逸れは、像が鑑賞者に従属することなく、自律した人格として立つための重要な要素である。
古典主義の均衡を保ちながら、沈黙と内省へ向かう表情。その両立こそが、クロチェッティの「現代古典主義の特徴」である。


第3章 クロチェッティ芸術の核心 ― 沈黙と距離の美学


「ダンサー」を前にして私がまず感じたのは、「拒絶」であった。視線は合わず、腕は閉ざされ、身体は鑑賞者に対して開かれない。通常の美的経験においては、作品と鑑賞者が内的に結びつくことが重視される。ならば、この作品はなぜ魅力を放つのか。


その鍵となるのが、クロチェッティが追求した 「沈黙と距離」の美学 である。クロチェッティの沈黙は、感情を語らないことによって、鑑賞者の内側の思索を逆に駆動する沈黙である。作品が語らないからこそ、鑑賞者はその沈黙の意味を探ろうとし、像の内部へ思いを巡らせる。


また距離とは、作品が鑑賞者に近づかず、心の内側を容易に渡さないことで生じる精神的隔たりである。この「届かない精神」を前にしたとき、鑑賞者はただ排除されるのではなく、むしろその到達不能性に惹きつけられる。
触れようとしても触れられない存在への憧憬。ここに、クロチェッティの美が成立する。
つまり、クロチェッティは「作品と鑑賞者の融合によって美が生じる」という一般的前提を超え、距離を保ち沈黙することで、逆に美的経験を生み出す彫刻家なのである。そこには、「拒絶の美」がある。


第4章 聖なるものの表現 ― 舟越保武との比較

クロチェッティの沈黙と距離の美学を理解するためには、同じく沈黙を扱いながらまったく異なる方向に展開した舟越保武の作品と比較することが有効である。


舟越はカトリックの信仰を基盤に、祈りや救済を彫刻に刻もうとした。彼の像は鑑賞者に寄り添い、内面の深みへと誘い入れるように沈黙する。表面は滑らかで清潔に整えられ、量塊は重量感を伴いながら精神を支える。


これに対してクロチェッティは、粗い表面、軽やかな量、視線の逸れといった特徴を通じて、鑑賞者を像の内部に招き入れない。沈黙は祈りではなく、自律した人格が保つ「孤独の気配」であり、鑑賞者はその外側に立ち尽くすことになる。


同じ沈黙でも、舟越は「救済へ向けて開かれた沈黙」、クロチェッティは「人格を守るための閉じられた沈黙」である。両者の比較から、クロチェッティの作品が持つ拒絶と魅力という矛盾が、精神の独立性と沈黙の緊張関係から生じる独自の美であることが浮かび上がる。

結論

クロチェッティの「ダンサー」は、鑑賞者との直接的コミュニケーションを拒むように見える。しかし、その沈黙と距離が、むしろ鑑賞者の内側に思索の運動を生じさせ、深い美的経験をもたらす。作品が語らないことで鑑賞者が語り始めるという逆説こそ、クロチェッティ芸術の核心である。

舟越保武との比較によっても、クロチェッティの精神性がいかに独自の位置にあるかがより明確になる。

祈りの沈黙ではなく、自律の沈黙。救済の距離ではなく、人格の距離。そこにこそ、クロチェッティが20世紀彫刻に残した特異な価値がある。