第7章 終章 ― 未完の完成、そして沈黙の祈り

舟越保武の作品を辿ることは、一人の彫刻家の軌跡を追うことにとどまらず、「人間がいかに生き、いかに祈るか」という根源的な問いと向き合う営みである。「ダミアン神父像」「原の城」「聖女像」「LOLA」、そして「ゴルゴダ」。これらの作品を通して私が一貫して感じてきたのは、舟越の彫刻が常に魂の記録であったという事実である。


脳血栓で倒れる以前の舟越の作品は、いずれも完成度が高く、造形的にも精神的にも深く結実している。そこには技巧を誇示することのない静かな品位があり、形としての完成がそのまま祈りの深さと結びついている。


しかし、脳血栓以後、すなわち右手の自由を失い、左手による制作へと移行した後の作品は、まったく異なる位相を示し始める。
左手による制作において、舟越はもはや形の均整や完成度を目指していない。そこに現れるのは、「欠け」や「揺らぎ」、そして明確な「未完」である。だが私は、この未完成の中にこそ、完成を超えた真実の美が宿っていると感じてきた。それは、舟越が肉体の限界の中でなお祈りを形にしようとした、その生きる意志そのものが、作品に刻まれているからである。


左手で制作された「ゴルゴダ」は、その象徴的な作品である。この作品において、左手で粘土を切り刻み、掴み、押し出すという一挙手一投足は、彫刻の技法である以前に、祈りであり、告白であり、魂の闘争の痕跡であった。

そこには、神に向かって問い続ける人間の切実さがあり、人生を賭して信仰と向き合う姿が、痛切なまでに刻み込まれている。私はこの作品を、舟越保武にとっての「戦いとしての祈り」であったと受け止めてきた。


しかし、その数年後に制作された「ゴルゴダII」を前にしたとき、私は明らかに異なる印象を受けた。そこには、もはや闘争の身振りはない。切迫した抵抗も、告白の叫びも見られない。代わりに現れているのは、深すぎず浅すぎない彫り、出るべきものが出て、抑えるべきものが抑えられた凹凸の調和、そして静かな気品である。


「ゴルゴダI」は、技巧的完成の到達点ではない。むしろそれは、存在論的完成と呼ぶべき地点に立っている。ここでは、祈りはもはや行為ではなく、存在の状態そのものとなっている。舟越はこの作品において、自らの命を神に預けきった後の静けさ、すなわち沈黙としての信仰を形にしたのではないだろうか。日本語で言えば、「」という言葉が自然に重なってくるような境地である。


舟越の子息である船越桂は、「ゴルゴダII」について「この作品を作るために、父は右手の自由を失ったのではないかと思った」と語っている。この言葉は、単なる親子の感傷ではない。「ゴルゴダII」が、喪失の結果としてやむなく生まれた作品ではなく、この喪失を経なければ到達しえなかった必然の造形であることを、彫刻家として直感的に捉えた言葉である。そこには、奥へ行くべきものは奥へ行き、出るべきものは出尽くした、完全な均衡がある。


「ゴルゴダ」が問い続ける祈りであったとすれば、「ゴルゴダ」はその問いを生き切った後に訪れた沈黙である。ここにおいて、未完はもはや欠如ではない。それは、完成を超えた地点においてのみ可能となる、開かれた完成である。


舟越保武は生涯をかけて、「見える形の奥にある、見えない生命の気配」を彫ろうとした。その営みは信仰の造形であると同時に、人間存在そのものへの賛歌であった。


「聖女像」の沈黙、「LOLA」の微笑、「ゴルゴダ」の苦闘、そして「ゴルゴダII」の安らぎ。そこに貫かれているのは、技巧の深化ではなく、魂の成熟の軌跡である。



今、私自身が舟越と同じ年齢に達し、彼の晩年の姿を思うとき、心の奥で静かな問いが響く。「自分に残された時間で、私は何を創り、何を伝えることができるだろうか。」「ゴルゴダII」は、その問いに対して、声高な答えではなく、沈黙によって応えているように思える。


それは、「生きること」そのものが創造であり、「祈り続けること」そのものが人間の尊厳であるという、揺るぎない確信である。


舟越保武の彫刻は、完成を目指した芸術ではない。未完成の中にこそ宿る真実を、最後まで手放さなかった芸術である。

そしてその未完成を前にしたとき、完成へと至るのは、常に観る者自身なのだ。私にとって舟越の作品は、祈りを超えた生きる証であり、沈黙のうちに人間を信じ切ることの可能性を、今なお静かに示し続けている。


2026年1月11日