
舟越保武の作品を辿ることは、一人の彫刻家の軌跡を超え、「人間がいかに生き、いかに祈るか」という普遍的な問いと向き合うことである。「ダミアン神父像」「原の城」「聖女像」「LOLA」、そして「ゴルゴダ」。これらの作品を通して私が感じたのは、舟越の彫刻が常に“魂の記録”であったということだ。
舟越が脳血栓で倒れる以前の作品は、いずれも完成度が高く、造形的にも精神的にも十分に結実している。そこには技巧を超えた静かな品位があり、形としての完成が祈りの深さに直結している。一方、脳血栓以後の作品――すなわち左手による制作においては、形の均整よりもむしろ「欠け」や「ゆらぎ」、そして「未完」がそのまま作品の本質となっている。だが私は、この未完成の中にこそ、完成を超えた真実の美が宿っていると感じる。それは、舟越自身が肉体の限界の中でなお祈りを形にしようとした、その“生きる意志”が作品に刻まれているからである。
左手で彫られた「ゴルゴダ」を前にすると、私は不思議な感動に包まれる。それは技巧や構成の問題を超えた次元で、作品そのものが生命を帯びているように感じられるからだ。舟越が右手を失ってもなお、左手で創造を続けたこと――その事実自体が、芸術の奇跡であり、人間の精神の証である。未完成であるにもかかわらず、いや、未完成であるがゆえに、私はその作品を「完成以上のもの」として受け取っている。そこには、形を超えて、祈りと生命が一つになった瞬間がある。それを奇跡と呼ばずして、何と呼べばよいだろうか。
舟越は生涯をかけて、「見える形の奥にある、見えない生命の気配」を彫ろうとした。それは信仰の造形であると同時に、人間存在そのものへの賛歌であった。「聖女像」の沈黙に始まり、「LOLA」の微笑を経て、「ゴルゴダ」の苦闘に至るまで、舟越の彫刻には常に「祈る人間の姿」が刻まれている。その歩みは、技巧の深化ではなく、魂の成熟の記録であった。
今、私自身が舟越と同じ年齢に達し、彼の晩年の姿を思うとき、心の奥で静かに問いが響く。「自分に残された時間で、私は何を創り、何を伝えることができるだろうか。」舟越の「ゴルゴダ」は、その問いに対して答えを示しているように思える。それは、「生きること」そのものが創造であり、「祈り続けること」そのものが人間の尊厳であるという、静かな確信である。
舟越保武の彫刻は、完成を目指した芸術ではなく、未完成の中にこそ宿る真実を追い求めた芸術である。その未完成を前にしたとき、観る者の心が完成へと至る。私にとって舟越の作品は、まさにそのような奇跡の媒介であり、祈りを超えた“生きる証”そのものである。