中原悌二郎と佐藤忠良における顔の造形──精神の裂け目と時間の沈殿

近代日本彫刻の歴史のなかで、「顔」は単なる解剖学的部位ではなく、作家が人間をどのように理解し、世界をどのように受けとめているかを最も純粋な形で表現する領域である。


今回は、中原悌二郎の晩年の代表作「墓守老人」と、佐藤忠良の代表作「群馬の人」を取り上げ、両者の顔の造形に潜む思想的背景を比較する。特に、中原における「精神の裂け目」という概念と、佐藤が重視した「自然へのまなざし」が、どのように顔の造形を通して形象化されているかを中心に論じたい。

1. 中原悌二郎《墓守老人》──精神の裂け目としての顔
「墓守老人」(1916)は、中原悌二郎の彫刻における思想が最も純粋に表れた作品である。上記画像からも、額の深い皺、頬の鋭い断裂、沈み込む眼窩、荒々しい表面など、表情以前に「精神の痛み」が直接刻まれていることが確認できる。中原の顔に見られる造形特徴は、単なる写実や技術の巧みさではなく、「精神の裂け目」として理解できる。


精神の裂け目とは、内面の不安、孤独、痛み、葛藤といった感情が形を保てず、表面に破れ目として露出する状態を指す。中原の顔はなめらかに整えられた形ではなく、内側から押し出された圧力が形を破壊しているような造形を示す。額の皺は単なる老いの表現ではなく、長い苦難が皮膚を突き破り、深い溝となって刻まれたもののように感じられる。眼窩の暗さは、精神が沈み込み、光が届かなくなった内面を象徴する。頬の面は連続せず、急激に切断され、形の不安定さがそのまま心理の不安定さへと転化している。


この造形態度は、西洋近代彫刻、特にロダンの「精神の劇場」という理念の影響を受けている。ロダンの作品では、皮膚の下で行われる心理的葛藤が、彫刻の肌理として露出する。

中原はこれを日本において最も真剣に受容し、内面の劇性を顔に刻むことで、「生きることは傷つくことである」という厳しい人間観を造形化した。そのた「墓守老人」の顔は、外界に向けた表情ではなく、内側の闇が表層を突き破った痕跡として現れる。ここに、中原彫刻の核心がある。


2. 佐藤忠良《群馬の人》──時間と自然を沈殿させた顔
佐藤忠良「群馬の人」(1952)は、中原とは対照的に、自然と生活、時間の蓄積を静かに受けとめた顔を持つ。上記写真からも、顔は穏やかで、感情は抑制され、面は滑らかで均質に整えられていることが分かる。「墓守老人」のような激しい面の断裂はなく、顔は自然の地層のように静かに積み重なっている。


佐藤は「自然を見よ」「自然の摂理は人間の表面にも現れる」と繰り返し語った。佐藤の顔の造形は、単なる写実ではなく、人間を自然のなかにある生命として捉える視点から生まれている。顔に現れる線と面は、自然物の輪郭のように無理がなく、過度な力みや劇性を排している。表情は控えめであるが、内部に宿る生命の気配は静かに息づいている。この静謐さは、日本の仏像彫刻に通じるものであり、感情を直接露出させず、“沈黙を通して語る顔”といえる。


さらに、佐藤は素材への強い倫理的意識を持っていた。「木らしいもの、石らしいもので育つ現代は危険だ」という発言に示されるように、彼にとって素材とは自然の分身であった。「群馬の人」の顔の面が穏やかに整えられているのは、人間を自然の連続的存在として捉える意識の反映であり、過度な造形的操作によって自然の生命感を破壊しないという姿勢が込められている。


このように佐藤の顔は、自然と時間の蓄積を静かに容れる「器」であり、中原の激しい断裂とは根本的に異なる方向を示している。


3. 両者の顔の差異が示す人間観の違い
以上の分析から、中原と佐藤の顔の造形は、単なる作風の違いではなく、人間とは何かという問いへの根源的な解答の違いであることが浮かび上がる。


● 中原:
顔= 精神の裂け目精神の痛み、孤独、葛藤が表面を破り、形がひび割れ、倒れそうなバランスの中に人間の真実が宿る。


● 佐藤:
顔= 時間と自然の器感情を表面に露出させず、人間の生の時間、自然の摂理、生活の重みを静かに沈殿させる。


中原の顔が「瞬間の劇」を表すとすれば、佐藤の顔は「持続する時間」を表す。中原の顔が“裂け目としての精神”を刻むなら、佐藤の顔は“自然としての生命”を包む。


この対比は、東西美術の美意識の差異とも重なり、中原=西洋近代の劇性佐藤=日本的静謐という構図として理解できる。


中原悌二郎「墓守老人」と佐藤忠良「群馬の人」は、近代日本彫刻における二つの対極的な人間像を提示している。

中原の顔は、精神の痛みが形の破れ目として露出する「精神の裂け目」であり、人間存在の根底に潜む苦痛と孤独がそのまま造形に刻まれる。

一方、佐藤の顔は、自然の摂理と生活の重み、長い時間を静かに受けとめる「自然の器」である。両者の顔の表現には、感情の露出と沈黙、裂け目と均衡という根本的な差異があり、これらは作家の人間観・自然観を最も純粋に反映している。


したがって、両者の作品を比較することは、日本近代彫刻が東西の造形思想をどのように吸収し、独自の表現を築いてきたかを理解するうえで極めて重要である。中原が提示した「痛みの顔」と佐藤が示した「静けさの顔」は、その対比によって、彫刻が人間の本質をどれほど多様に語り得るかを私たちに教えるのである。