
序論
オーギュスト・ロダンは、芸術の唯一の原則は「見る」ことであると語った。しかしロダンにとって「見る」とは、形を外側から眺めることではない。それは、対象の内部に潜む 方向(面)・重さ(量)・時間(動勢) という三つの力学を読み取り、形が「なぜその形になるのか」という生命の必然性を理解する行為である。
ロダンは、表面的な美ではなく、形の背後にある「原因」を読み取ることを求めた。本稿では、その理論的枠組みを整理した後、「ジャン・ド・フェンヌ」と「ジャン・デール」を素材に、ロダンの視点がどのように像を読み解くかを示す。さらに、一般鑑賞者がこの「見る」を実践できるよう、鑑賞時に自らへ投げかける質問(セルフ・ファシリテーション)を提示する。
また、ロダンにとって形は偶然の結果ではない。恐怖があるから視線は逸れ、覚悟があるから重心は沈み、怒りがあるから拳に量が凝縮する。
生命の必然性とは、「内的な感情と力が、外部の形態を必然的に生み出した状態」を指す。
ロダンの「見る」とは、形そのものではなく、形を生み出した内的原因(生命)を理解する行為なのである。
ロダンの理論を用いた実践的分析ー 二つの像に潜む生命の必然性 ―

ジャン・デール(旭川彫刻美術館)とジャン・ド・フェンヌ(神戸市立博物館)
ジャン・ド・フェンヌ― 前進と後退が同時に存在する揺れる精神
(a)面を見る―開きと閉じが左右で分裂する心理
胸はわずかに前上方へ「開き」、覚悟の兆しを示す。視線は正面(死)を見ずに横へ「閉じ」、逃避の心理を示す。右腕は掌を外へ向けて開き、献身の方向を示すが、左腕は体側に寄り、閉じへと傾く。
→ 開閉が左右で割れ、青年の心が実際に割れているように見える。
(b)量を見る―左脚に沈む覚悟、右脚に宿る恐怖
写真は、右脚は 後方へ軽く引かれている 。重心は 左脚に深く沈む。 これは「逃げずに立つ覚悟」である。右脚は 後方へ軽く引かれて体重を支えていない。これは死刑を前に「後退したい本能的衝動」を象徴している。
→ 量の非対称性は、青年の葛藤そのものを可視化している。
(c)動勢を見る―前へ出たい意志と後ろへ逃げたい恐怖の同時存在
・ 左脚 → 前進の可能性
・ 右脚 → 後退の可能性
・ 頭部 → 視線は死から逃れる
・ 胸 → 前へ向かおうとする
これらが交差し、身体の各部が異なる時間方向を向く「時間の裂け目」が生じている。
ジャン・デール― 怒りと屈辱を内部で堪え続ける人物像
ロダンは、怒りを内側で燃やしながら、一歩も動かずに耐え続ける人間を造形していた。
(a)面を見る―張り詰めた閉じと、顔だけが前へ向かう矛盾
胸は張るが、それは外へ開くためではなく、 内圧が内部から押し上げた結果 である。拳は強く握られ、腕は垂直に下がり、力は外へではなく内へ収束 する。顔だけが硬い意志をもって前をにらむ。
→ 身体は閉じ、顔は開く。意志と現実が分裂した姿。
(b)量を見る―動くための量ではなく、「踏みとどまる量」
重心は前方へ傾かず、両脚が大地を広く掴む。これは 「ここから動かない」ための量 である。量は拳と胸郭に凝縮し、心理的緊張を内部に押し込める構造。
→ 量は前進ではなく 内圧の持続 を示す。
(c)動勢を見る―動かないこと自体が「時間の方向」
デール像は「次に動く」人物ではない。むしろ 次の瞬間にも同じ姿勢で立ち続ける人物 である。動勢は前進の未来ではなく、耐える未来、動かない未来 を指す。
→ ロダンは、動かない力、持続する時間を造形した。
二像の比較にみるロダン造形の本質観点

つまり、
● フェンヌ は「揺れる精神」の像、
● ジャン・デール は 「耐える精神」の像である。
これがロダン彫刻の心理の複層性である。
一般鑑賞者のためのロダン式セルフ・ファシリテーション
問いを立てる鑑賞の意義
ロダンの“見る”を理解するためには、鑑賞者自身が作品へ問いを投げかける能動性が不可欠である。問いは作品への入口となり、鑑賞者自身の感性を刺激する。
ロダンなら自分に投げかける10の質問
1.この像はどの方向へ向かおうとしているか?
2.どこが開き、どこが閉じているか?
3.どの部分に重さが沈んでいるか?
4.心の重心はどこにあるか?
5.この姿勢の前にはどんな動きがあったか?
6.次の瞬間、どこへ動こうとするか、あるいは動かないか?
7.形の内部に矛盾(前進/後退、開/閉じ)はないか?
8.この人物は何を感じ、どんな性格(caractère)を持つか?
9.見えていない骨・筋肉はどのように作用しているか?
10.なぜこの形なのか?この形である必然性は何か?
鑑賞プロセスの深化
鑑賞は、観察 → 解釈 → 再観察という循環で深まる。面・量・動勢を往復することで、形の背後にある生命が立ち上がる。
結論
ロダンの“見る”とは、形ではなく形を生む内的原因―生命の必然性―を読む行為である。
「ジャン・ド・フェンヌ」では、前進と後退が同時に存在する揺れる精神が、「ジャン・デール」は、怒りを内へ封じ、動かず耐える精神が造形される。
ロダンの方法は、鑑賞を「物体を見る行為」から「生命を理解する行為」へと変換する視座を与える。鑑賞者が問いをもち、面・量・動勢の三視点で作品を読むとき、彫刻は静止物ではなく、人間の内的時間を刻む存在として立ち上がるのである。