
English Summary
Yoshitatsu Yanagihara began his career by studying the traditions of French modern sculpture, especially Rodin and Bourdelle. This early period corresponds to Shu, the stage of faithfully mastering established techniques and forms. His figurative sculptures demonstrate careful observation of anatomy, volume, and proportion.
A profound transformation occurred after his stay in Paris at the age of forty-two. Encountering the works of Giacometti and Bourdelle convinced him that imitation alone could never reveal his own artistic identity. Like the painter Yuzo Saeki, who abandoned academic conventions after his encounter with Vlaminck, Yanagihara chose to break away from established forms. This marked the beginning of Ha, the stage of creative independence.
Works such as Black Woman and Red-Haired Woman abandoned conventional beauty in favor of rough textures and distorted masses that express suffering, vulnerability, and the weight of existence. Rather than pursuing ideal form, Yanagihara sought the reality of living itself.
His mature works, including Song of the Dog, Guidepost, and Bird in the Wind, move beyond expression toward prayer. While Giacometti explored the isolation of human existence, Yanagihara transformed that awareness into a quiet harmony between humanity and nature. This is the stage of Ri, where sculpture transcends representation and becomes a meditation on the dignity of life.
In Song of the Dog (1961), the dog does not bark. Its silent posture embodies inner resistance and dignity. Unlike Rodin, who externalized human passion, Yanagihara internalized it, expressing suffering through silence. The rough bronze surface remains intentionally unfinished, suggesting that life itself is always incomplete.
In Guidepost–Dove (1974), Yanagihara depicts a dove quietly resting upon a guidepost. Rather than portraying dramatic action, he reveals a living being breathing in harmony with wind, light, and space. Whereas Giacometti emphasized existential solitude, Yanagihara presents reconciliation between existence and nature.
For Yanagihara, silence is not emotional suppression but a deeper language through which life communicates with the world. His sculpture no longer seeks perfected form but preserves the invisible presence of living itself. In this final stage of Ri, sculpture becomes an act of prayer—a quiet affirmation of the dignity of existence beyond form.
柳原義達は、新制作派協会の創立に参加しながら、ロダンやブルーデルなどフランス近代彫刻を手本に、具象的な人体彫刻を制作していた。当初は師の教えを忠実に学び、形と量感を正確に捉える「守」の段階にあったといえる。彼にとってそれは、いわば技と型を身につける修行の過程であり、武道や芸道における「守・破・離」の第一歩であった。
しかし、次第に柳原はその模倣の延長線上には、自らの彫刻の本質がないことを感じはじめる。42歳で渡仏し、パリでジャコメッティやブルーデルの影響を直接受けることで、彼の内面に大きな転機が訪れた。ロダン的な情熱でも、ブルーデル的な構築でもなく、「自分の中にしかない形」を掘り起こそうとする強い衝動が芽生える。ここから柳原は、型を破り、自らの表現を模索する「破」の段階へと歩み出す。

赤毛の女 神戸ポートアイランド 1953年
その「破」の精神が最初に形となって現れたのが、《黒人の女》や《赤毛の女》である。
これらの作品では、均整のとれた美しさは捨て去られ、荒々しい表面と歪んだ量感の中に「生きている者の苦しみ」や「存在の重さ」が刻まれている。
私は神戸で約25年間仕事をしていた関係で、偶然この二つの作品に出会った。ポートアイランドの商工会議所に設置されたその像を初めて見たとき、思わず「なんて気味が悪い作品なんだ」と感じたことを覚えている。しかし今になって思えば、その違和感こそ、柳原が従来の“美の形式”を壊し、人間の根源に触れようとした叫びであったのだ。
佐伯祐三がブラマンクに作品を見せ、「アカデミズム」と吐き捨てられ、「自分の絵はどこにあるのか」と叱咤されて独自の道を模索したように、柳原もまた自らの殻を破る覚悟を決めた。
実際、柳原はブラマンクに会っており、その影響は無視できない。彼にとって「破」は、師を超えるための反逆ではなく、自らの魂を見つめる孤独な旅の始まりであった。
やがて柳原は、《犬の唄》《道標》《風の中の鳥》といった作品群へと至る。そこでは、形態の完成よりも「祈り」そのものが彫られている。ジャコメッティの影響は明白だ。ジャコメッティは、人間の「存在する」ことの不安と孤独を極限まで削ぎ落とし、痩せ細った像の中に“存在の痕跡”を刻み続けた。

犬の唄 神戸 ポートアイランド
「今日の仕事をするために、昨日を反省するために、明日の可能性に生きる」
柳原もまた、完成を拒みながら、ただそこに“ある”という存在の真実に迫ろうとした。しかし、ジャコメッティの孤絶した人間像とは異なり、柳原の彫刻には自然と人間が溶け合う静かな祈りが宿っている。
それは「離」の境地──形を超えて生命の尊厳を表す段階である。
柳原にとって「離」とは、技巧の完成でも、思想の到達でもない。それは、形を離れ、沈黙の中に生命の声を聴くための、祈りの行為であった。《犬の唄》の静かな佇まい、《道標》の見上げる手の構えは、いずれも“生きることそのものが彫刻”であるという柳原の到達点を象徴している。
第二章 沈黙の祈り──《犬の唄》と《道標・鳩》にみる「離」の境地
柳原義達の晩年に至る彫刻は、声なき「祈り」を形にする試みであった。それは宗教的な祈りではなく、生きるという行為そのものを肯定する沈黙の姿勢である。その象徴的な作品が《犬の唄》(1961年)と《道標・鳩》(1974年)である。この二つの作品は、一見対照的でありながら、ともに「存在の尊厳」と「自然との共鳴」を静かに語りかける。
① 《犬の唄》──存在の叫びを内に秘めた沈黙
《犬の唄》は、吠える犬の姿を描いてはいない。口を閉じ、わずかに首を傾け、静かに立ち尽くすその姿は、異様な緊張感をもって空間に存在している。この犬は、声を発しないかわりに、その沈黙自体が唄であるかのようだ。
ロダンが『カレーの市民』で肉体の苦悩を外へと叫びとして表したのに対し、柳原はその叫びを内面へと沈潜させ、沈黙の中で「生きる痛み」を彫り出した。それは、外に向かう表現から内へと還る、「離」の境地を象徴している。
表面は荒く、ブロンズには指の痕跡がそのまま残されている。しかしその荒々しさは未完成ではなく、生命が呼吸する皮膚のような温度を持っている。
柳原は「完成した形ではなく、生きている形を求めた」と語っている。《犬の唄》の犬は、完成を拒む生であり、声を上げずとも存在そのものが唄となる。それは、彼が彫刻という行為のなかに見出した“祈りの原点”である。
② 《道標・鳩》──自然と存在の融和としての祈り
一方、《道標・鳩》は、「道標(みちしるべ)」の上に鳩が静かに佇む姿を捉えた作品である。人物像ではなく、鳥という最も自然な生命を通して「祈り」のかたちを掘り出している点に、この作品の独自性がある。
柳原が見つめたのは、擬人化されたドラマではない。鳩という小さな生命が、風や光の流れの中で静かに呼吸し、自然の力と響き合って存在している姿であった。その造形は、見る者に“生きることの静けさ”を思い出させるように、自然と共に在る生命のかたちをそっと示している。この静けさこそが柳原にとっての祈りであり、「自然と人間が溶け合う沈黙の中の孤独」を象徴している。
ここにはジャコメッティの影響も明確に見られる。ジャコメッティが“存在の孤絶”を極限の形態で表したのに対し、柳原は自然と共にある“存在の融和”を掘った。彼の鳩は、孤独に立つのではなく、風や光の中で呼吸している。この「風とともにある存在」という感覚が、柳原の彫刻を西欧的実存の孤独から解放している。
③ 沈黙の美学──叫びから祈りへ
ロダンが「動」と「激情」を通して人間の存在を表したとすれば、柳原は「静」と「沈黙」を通してそれを掘り下げた。彼は、叫ぶことによってではなく、沈黙することによって生命の深さを示そうとした。この沈黙は、感情の抑圧ではなく、外界と響き合うための内なる静けさである。
それは、表現の極限に到達した芸術家が辿り着く“無言の言葉”であり、その沈黙の中にこそ、形を超えた「祈り」と「生命の尊厳」が宿っている。
④ 「離」の精神──形を離れて生を彫る
柳原は、形の完成を目指すことを拒んだ。彼にとって彫刻とは、完成品を作る行為ではなく、生きることそのものであった。「彫刻という作品に、生きるという祈りを込めて形にしていった」――この言葉に、彼の芸術の核心が凝縮されている。
《犬の唄》に見られる内なる声なき唄、《道標・鳩》における空と風の中の静かな祈り。それらは、いずれも彼が「離」の段階で到達した世界観、すなわち
「沈黙の中にある生命の尊厳」を形にしたものである。
柳原義達の彫刻は、もはや人間を表すための“形”ではない。そこに在るのは、形を超えて生きる者たちの「存在の気配」そのものである。
この静かな気配こそ、柳原が人生をかけて彫り続けた「祈り」であり、「魂の証」であった。この「風とともにある存在」という感覚が、柳原の彫刻を西欧的実存の孤独から解放している。
2026年6月26年 更新