
English Summary
Yasutake Funakoshi's Golgotha and Golgotha II are not merely two versions of the same subject. They represent a profound transformation in the artist's spiritual journey—from prayer as struggle to faith as silence.
Golgotha was created after Funakoshi suffered a stroke in 1987 that left his dominant right hand paralyzed. For a sculptor, this was not simply a physical disability but a crisis that threatened his very identity. Refusing to abandon sculpture, he resumed working with his left hand. The vigorous modeling of Golgotha preserves the traces of this physical and spiritual battle. Every gesture became an act of prayer, confession, and resistance. Rather than expressing peace or redemption, the work embodies an intense struggle to continue standing before God despite suffering and loss.
Three years later, Golgotha II reveals a fundamentally different spiritual condition. The dramatic tension has disappeared, replaced by remarkable calm and balance. Its restrained modeling and quiet expression suggest neither recovery nor victory but the serenity that becomes possible only after suffering has been fully accepted. The sculpture no longer asks questions of God; instead, it embodies complete surrender and trust.
This transition reflects a deeper transformation in the nature of prayer itself. In Golgotha, prayer still has words, gestures, and conflict. In Golgotha II, prayer has become a state of being. Silence is no longer emptiness but the highest expression of faith.
This interpretation is supported by the sculptor's son, Katsura Funakoshi, who remarked that he felt his father had to lose the use of his right hand in order to create this work. His comment suggests that Golgotha II could not have emerged without this profound personal sacrifice. Its achievement lies not in technical mastery but in existential completion—a sculpture that simply came into being after a life fully lived.
Although Yasutake Funakoshi expressed his vision through Christian imagery while Katsura Funakoshi explores the human condition without explicit religious symbolism, both ultimately pursue the same goal: affirming human dignity despite unavoidable suffering. The silent faith achieved in Golgotha II resonates deeply with Katsura's later sculptures, which likewise embody prayer through human presence rather than religious narrative.
Ultimately, Golgotha represents prayer as struggle, while Golgotha II embodies faith that has passed beyond struggle into profound silence. In doing so, the sculpture transcends its Christian subject and becomes a universal testimony to the dignity of human existence. It stands as one of the highest achievements of modern Japanese sculpture, expressing not victory or defeat but the quiet acceptance of life itself.
舟越保武の「ゴルゴダ」と「ゴルゴダII」は、単なる連作ではない。そこには、同一の主題を反復した結果としての深化ではなく、人間が生を賭して祈り、信仰と向き合った末に到達した位相の変化ー闘争としての祈りから、沈黙としての信仰へーが、はっきりと刻まれている。
本稿では、「ゴルゴダ」を「闘争としての祈り」、そして「ゴルゴダII」を「到達した沈黙の信仰」と捉え、その間に横たわる決定的な差異を考察する。
1.ゴルゴダ―左手による闘争としての祈り
「ゴルゴダ」が制作された背景には、舟越保武が脳梗塞により右手の自由を失うという(1987年75歳)、彫刻家にとって致命的とも言える事態がある。右手が彫刻家の身体的中枢であるならば、その喪失は、単なる身体障害ではなく、存在の根拠そのものを揺るがす出来事であった。
一度は絶望しながらも、保武は左手で再び彫刻を始める。そこに見られるのは、静かな再起ではない。「ゴルゴダ」の造形には、左手で粘土を切り刻み、掴み、押し出すという、激しい身体運動の痕跡が刻まれている。その一挙手一投足は、技法である以前に、祈りであり、告白であり、魂の記録であった。
ここでの祈りは、すでに安らぎではない。それは、神に向かって投げかけられる問いであり、抗議であり、必死の訴えである「ゴルゴダ」は、信仰の完成形ではなく、信仰を賭けた戦いの只中にある造形なのである。
したがって、「ゴルゴダ」に刻まれているのは「救済」ではない。刻まれているのは、それでもなお彫刻家であろうとする意志、それでもなお神の前に立とうとする人間の姿である。この作品は、人生をかけた闘争であった。
2.ゴルゴダII―戦いの後に訪れた静けさ
しかし、その三年後に制作された「ゴルゴダII」は、明らかに異なる相貌を見せる。ここには、もはや切迫した力みも、告白の叫びも存在しない。
彫りは深すぎず、浅すぎず、「ぴったりのところ」まで到達している。出るべきものは出ており、抑えるべきものは抑えられている。その凹凸が生み出すのは、闘争の痕跡ではなく、強い調和である。
表情は特定の顔ではない。しかしそこには、「キリストの深さ」としか言いようのない、存在の奥行きがある。
ここで重要なのは、「ゴルゴダII」が「回復」や「克服」を語る作品ではないという点である。これは、病を乗り越えた勝利の像ではない。むしろ、病と喪失を完全に引き受けた後にしか現れない静けさが造形されている。
私はこの作品に「悟」という日本語を重ねたい感覚を持っているが、決して飛躍ではない。「ゴルゴダII」に見られるのは、闘争の放棄ではなく、委ね切った後の信仰の姿である。

3.沈黙としての信仰
「ゴルゴダ」から「ゴルゴダII」への移行は、祈りの形態の変化である。それは、問い続ける祈り から問いを生き切った後の祈り への移行である。
「ゴルゴダ」では、祈りはまだ言葉を持ち、身振りを持ち、闘争として現れていた。しかし「ゴルゴダII」では、祈りは存在の状態そのものへと変質している。
ここでは、神に何かを求める必要すらない。自らの命をも、完全に神に預けるという一点において、信仰は沈黙へと至っている。
この沈黙は、虚無ではない。それは、信仰が最も深い地点に到達したときにのみ現れる、肯定としての沈黙である。
4.舟越桂の言葉が示す必然性
この到達点を最も鋭く言語化しているのが、子息である 舟越桂 の言葉である。
「この作品を作るために、父は右手の自由を失ったのではないかと思った」
この言葉は、悲劇を美化する感傷ではない。それは、彫刻家としての直観である。
「ゴルゴダII」は、右手を失った結果として「仕方なく」生まれた作品ではない。むしろ、この喪失を経なければ、この均衡、この静けさ、この深度には到達できなかった。桂の言葉は、その必然性を示している。
また、「奥へ行くものは行っているし、出てきているものは出てきている」という評価は、「ゴルゴダII」が技巧的完成ではなく、存在論的完成であることを示している。
このことは、「ゴルゴダII」が「うまく作られた作品」ではなく、「生き切った末に、そこに在ってしまった形」だからである。技巧はそこに従属し、主役は技術ではなく、存在の姿勢です。
すなわち、「ゴルゴダII」では、祈りは行為を超えて、彫刻は作るということから、在り方になって、生きることは、委ねとして引き受けられている。ここに、技巧の完成では説明できない断絶があります。
5.父と子が登った同じ山
ここで、舟越保武と舟越桂の関係が浮かび上がる。保武は、キリスト教という明確な宗教的枠組みの中で、神の前に立つ人間を彫った。桂は、宗教的象徴を離れ、世界の前に立つ人間を彫った。
アプローチは異なる。しかし、二人が目指した地点は同じである。
それは、どうしようもない現実が立ちふさがっているにもかかわらず、それでも人間を信じ切るという姿勢である。
「ゴルゴダII」において保武が到達した沈黙の信仰は、桂が後年、「水に映る月蝕」で示した「祈りとしての人間像」と、深く共振している。
6.結語――到達した信仰とは何か
「ゴルゴダ」は、人生を賭した闘争であった。「ゴルゴダII」は、その闘争を生き切った末に到達した、沈黙の信仰である。
それは、勝利でも敗北でもない。それは、人間が人間として在ることを、最後まで引き受けた姿である。
この到達点において、彫刻は宗教的主題を超え、人間存在そのものの美しさと尊厳を静かに証言する。
「ゴルゴダII」は、舟越保武という彫刻家の最終到達点であり、同時に、日本近代彫刻が到達し得た、祈りと信仰の最も深い造形の一つである。
そしてこの沈黙は、今なお私たちに語りかけている。言葉ではなく、在り方そのものとして。
2026年6月28日更新