
English Summary
Funakoshi Yasutake's Golgotha represents the culmination of his lifelong artistic and spiritual journey, where sculpture became inseparable from prayer itself. Following the serene spirituality expressed in his earlier sculptures of female saints, this late work transcends artistic creation and becomes a testimony to living, suffering, and faith. The image of the Virgin Mary holding the crucified Christ recalls Michelangelo's unfinished Rondanini Pietà, in which physical limitation transformed sculpture into an act of devotion.
After suffering a stroke in 1987 that paralyzed his dominant right hand, Funakoshi refused to abandon sculpture. Instead, he resumed modeling with his left hand, completing Golgotha in 1989. This work emerged not from technical mastery but from an intense struggle with his own body, destiny, and faith. Documentary footage of the elderly sculptor working from a wheelchair reveals that sculpting had become an act of prayer rather than mere artistic production.
For Funakoshi, Golgotha was not simply a representation of Christ but an expression of the suffering and hope that he himself experienced. Every movement of his left hand became a confession of faith and a record of the human spirit confronting physical decline. Like Michelangelo's Rondanini Pietà, Golgotha may be understood as a "completed incompleteness," where spiritual truth surpasses formal perfection. The work stands as the artist's final testament, affirming that genuine creation is ultimately an act of prayer and that human dignity resides in the courage to continue creating despite suffering.
第4章で述べた「聖女像」や「LOLA」の清澄な祈りの形は、やがて舟越保武自身の人生そのものと重なっていく。彼の最晩年の代表作「ゴルゴダ」は、もはや「彫刻をつくる」という行為を超えて、「生きること」「祈ること」そのものとなった作品である。
磔刑に処され、十字架から降ろされたイエスを抱く聖母マリア――。この主題は、ミケランジェロが晩年に取り組んだ「ロンダニーニのピエタ」を想起させる。ミケランジェロは視力を失いながらも、手探りでノミを振るい続けたと伝えられる。私はこの作品を写真でしか見たことがないが、そこに映るのは未完であるがゆえに、かえって完成を超えた「魂の形」であるように思う。視力を失った彫刻家にとって、その行為はもはや“造形”ではなく、“祈り”であった。肉体の限界を超えた場所に、魂の美しさが立ち上がっている。
舟越保武もまた、ミケランジェロに重なる人生を歩んだ。1987年、75歳のときに脳梗塞で倒れ、利き腕である右手が動かなくなった。彫刻家にとって致命的な出来事である。しかし彼は創作をやめなかった。わずかに動く左手で粘土を握り、格闘するように制作を再開したのである。その結果として生まれたのが、1989年、77歳のときに完成した「ゴルゴダ」である。この作品は、彼の生涯の集大成であり、肉体と精神の極限から生まれた祈りの彫刻である。
NHKの記録番組「老友へ〜83歳 彫刻家ふたり〜」で見た、舟越の姿が忘れられない。車いすに身を縛り、左手で粘土に挑むその表情は、何かに憑かれたようであった。それは闘いであり、祈りでもあった。舟越は自らの運命と、神と、そして自分の存在そのものと戦っていたように見える。彫刻刀を持つことも困難な身体で、なお形を刻もうとする姿に、私は人間の底知れぬ力を見た。
「ゴルゴダ」とは、イエス・キリストが磔刑に処された丘の名である。この地名を聞くと、私はマルコによる福音書15章34節の言葉を思い出す。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか)」。この叫びは、人間イエスの苦痛の極限における孤独を象徴している。
舟越が右手を失ったとき、彼もまた創造者としての“死”を宣告されたに等しかっただろう。しかし、命は奪われなかった。その与えられた命をどう生かすか――その問いに、舟越は全身で応えたのだ。
彼は、動かぬ右手を嘆くことなく、残された左手でイエスを彫り始めた。それは、自らの運命と和解し、魂の奥底から生まれる「祈りのかたち」を刻む行為であったに違いない。
私は思う。舟越が彫ろうとしたのは、もはや外形としてのキリストではなく、彼自身の中に宿る“イエス”そのものではなかったか。彼の脳裏には、すでに明確なイメージが浮かんでいたのだろう。左手で粘土を切り刻み、掴み、押し出す――その一挙手一投足は、祈りであり、告白であり、魂の記録であった。
そして今、私は舟越が倒れたときとほぼ同じ年齢にある。「ゴルゴダ」を前にすると、単に一人の彫刻家の努力や執念としてではなく、「生きるとは何か」という根源的な問いを突きつけられる。身体の衰えや不自由さを超えて、なお創造し続ける人間の姿に、私は“信仰とは生きることそのもの”であることを学ぶ。舟越の《ゴルゴダ》は、痛みを抱えながらも、なお祈り続ける人間の尊厳を形にした作品である。

ミケランジェロ「ロンダニーニのピエタ」
この「ロンダニーニのピエタ」が未完のまま神へ捧げられたように、舟越の「ゴルゴダ」もまた、肉体の限界を超えた「完成された未完」である。そこには、形よりも大切なもの――魂の軌跡が刻まれている。左手による「ゴルゴダ」は、舟越が人間として到達した最も深い祈りの姿であり、彼の全生涯が凝縮された“終章”なのである。
2026年6月28日更新